ざあざあと、耳をつんざくような雨の音。

雨に捕われるように、この体はまるで動かない。

体を打つその冷たさは、もう体温と同化してしまっていて、よく分からない。

もういつからこうしているのか。

俺はどうなっているのか。

あそこは、どうなっているのか。

……もう、何も分からなくなりそうだ。

いや、いっそ何も分からなくなってしまえば良いのに。

そうすれば、この身を引き裂くような、感情を。

何一つとして感じずに済むのに。

微かに空気の流れが変わったことも。

ぱしゃり、ぱしゃりと耳に残る、雨降り以外の、水の弾ける音も。

頭上から落ちてきたような気がする、音も。

そう、何も、かも。


甘い匂いが鼻腔をくすぐった気がして、意識が浮上した。

何だ。

何の匂いだろう。

覚えが無い。

とても甘い。

でもそれでいて、どこか心安らぐような……。

そこまで感じたところで、ばちりと目を覚ました。

視界いっぱいに広がったのは、見慣れない木目の天井。

体には、やや倦怠感が残っている。

それでも首を左右に動かせば、今現在自分のいる状況が少し把握できた。

今自分が寝かされているのは、柔らかい布団。

隣には、水桶。

部屋は、和室。

部屋に置かれている何もかもに、見覚えが無い。

どうして自分がここにいるのかも全く分からない。

分かることはたった一つ、ここが見知らぬ場所だということだけ。

「おや、お目覚めですか」

途端、ふっと、声が、降って来た。

声の発生源を探そうと首を動かせば、頭の先の方向。

そこに、人がいたのが見えた。

正確には、まだ足しか見えていないのだけれど。

その人物は、自分が視線を向ける頃にその場所を通り過ぎてしまったから。

だが、声は随分と低かったから、男であることは分かる。

それにしては滑らかで。

どこか心地の良い声音だったけれど。

耳に馴染みのない声だったはずなのに、どこかで聞いたことのある気がする声だった。

俺は一体、いつあの声を聞いたのだろう?

俺が疑問に思っている間に、殆ど足音も立てずに、その存在は戻ってきた。

そうしてようやく、声の主が視界に入る。

声の主は、まだとても若く見える、青年だった。

黒い髪と瞳、それに黄色い肌。

東洋人だ。

彼は、静かに自分の傍らに座ると、どうやら自分の額の上に乗っていたらしい手ぬぐいを取り上げた。

それを傍の水桶に漬けたかと思うと、再び取り上げ、水を絞る。

そして冷えたその手ぬぐいを、再び俺の額に乗せた。

「……ぁ……」

口を開こうとしたが、上手く声が出ない。

喉の奥がからからに乾いている気がする。

そんな俺を、彼は優しく制した。

「無理して声を出さないでください。……体、起こせそうですか?」

彼は遠慮深そうに聞くのに、俺は小さく頷く。

彼は俺が体を起こすのを手伝ってくれ、そうして起きた俺に、水の入ったコップを差し出した。

「飲めそうでしたら……」

差し出された水を、俺は遠慮なく受け取って、喉に流し込んだ。

少しむせそうになったが、何とか堪えた。

おかげで、多少は喉が潤い、声が出せるようになった。

「……ここ、は?」

「ここは私の家です。雨の中で倒れていた貴方を見つけ、看病のために運び込ませていただきました」

俺の一つの問いに対し、俺の疑問を二つも解消してくれた。

そうか、俺は彼に助けられたのか。

……それが、果たして良いことだったのかはよく分からない。

彼はコップが空になったのを見て、それを受け取り、そして再び俺を丁寧に横にした。

「まずは、お休み下さい。話はそれからに致しましょう」

そうしてゆっくりと横たえられる。

どうみても細腕なのに、彼の腕はしっかりと俺の上半身を支えてくれた。

先ほどよけられた手ぬぐいが、再び冷やされて額に乗せられる。

ぼんやりとした意識のまま、眠る前にもう一つだけ、と小さく呟いた。

届くかどうか心配だったのだが、声は正しく届いたらしく、彼ははい、と返事をしてくれた。

「……おま、えの……なは……?」

聞くと、彼は、それは優雅に微笑んだ。

彼の口から、彼の名が紡がれる。

「本田菊と申します」

その声を聞いたとき、俺は彼の声はあの雨の中で聞いたものだと、確信した。


だってその声は、まるで雨に溶けそうなくらいに澄んでいたから。


雨の中で、君の声を聞いた気がした
(雨の音に溶けるような、でも交わらない声音)