彷徨う声


目が覚めた。

視界には、やっと最近見覚えるようになった木の天井。

隣のベッドには、同じ存在の兄弟。

「おはよう、ヴィン」

目の前には、大切な人。

強いて言うなら兄のような存在。

「おはよう、アッシュ」

起き上がって、挨拶を返した。

「ルミナとセプを起こしてくれるか?」

二人の兄弟たちは、まだ眠りの中だった。

「うん」

頷いて、二人を起こそうと揺り動かす。

これはすっかり慣れてしまったやり取り。


生まれたばかりのことは、よく覚えていない。

記憶があるのは、アッシュが僕に名前をつけてくれたときからだ。

“ヴィスクス”

それが僕がもらった名前。

なんでも昔の言葉で、“豊かな心”を意味する言葉らしい。

お前にも心はあるんだよ、と言いながらアッシュは抱きしめてくれた。

そのときの温かさは忘れられない。

普段は短くして、“ヴィン”と呼ぶけれど。


「なあなあ、今日は何を教えてくれるんだ、アッシュ?」

ルミナが、朝ごはんの後片付けをするアッシュに尋ねた。

「そーだなー、今日は武術の続きをやるか」

「やりぃ! 俺、武術の訓練大好き!」

ルミナが飛び跳ねて、準備をしようと外に出て行った。

「ルミナ、手伝いなよ!」

アッシュを手伝っていたセプが手を拭いながら叫ぶ。

たぶん言っても聞かないとは思うけど。

「? どうしたの、ヴィン」

ルミナを見送っていた俺に、アッシュが首をかしげてそう聞いた。

俺は首を振って笑う。

「なんでもない」

暖かいな、と思っただけ。


「さ、今日は武術の続きだ。ヴィン、まずはお前からだ」

「うん」

たいてい武術の訓練は1対1で、上から行う。

その間他の二人は見学だ。

「早く始めてよ!」

「うるさいよ、ルミナ」

「何だよ、セプだって好きなくせに!」

熱くなりやすいルミナと、逆に冷静なセプはケンカをしやすい。

「ルミナ、セプ、ケンカするな! 観戦だって訓練なんだから、おとなしく見てろ!」

そうしてアッシュの注意が入る。

これがいつものこと。

「よし、それじゃはじめよう。ヴィンは蹴りの筋がいいから、今日はそこを重点的に攻めるか。ちょっと蹴りに来てみろ」

「うん」

武術の訓練をするときは、全力でといわれていた。

じゃないと身につかないって。

でも、僕らは未だにアッシュに一撃も入れられたことはない。

左足を軸にして右足を思いっきり振ったけど、やっぱりあたらなかった。

「うん、スピードはまあまあ。でももっと踏み込んで力を込めた方がいい。もう一回」

言われた通りにして、もう一回けりこむ。

今度は避けずに、受け止められた。

でもうまい具合にいなしたのか、アッシュは全然痛くなさそうだ。

「今のはいい感じだ。じゃあ次は左足で」

「分かった」

アッシュはいつも的確なアドバイスをくれる。

今のところ、それが間違っていたことはない。

でもそれは、アッシュと僕たちに決定的な力の差があるってことで。

ちょっと悔しかった。

ルミナの番、ルミナとアッシュを見ながら、セプに聞いてみた。

「ねえ、セプ。アッシュはとても強いよね」

「それが何さ」

「僕たち、アッシュと同じくらい強くなれるかなあ」

強くなりたい、それは僕たち三人がいつも言っていることだった。

理由なんて分かりきっている。

「じゃないと、アッシュを守れないよ」

優しくて、強くて、暖かくて、僕たちに名前をくれたアッシュ。

初めて僕たちに愛情を注いでくれた。

魔物が出たって、いつも彼が守ってくれる。

僕たちの、大切なアッシュ。

最初の武術訓練で、彼は言った。

“大切なものを守れるだけ強くなれ”

僕たちにとって、大切なものはアッシュしかいなかったから。

僕たちの守りたいものは必然とアッシュになった。

でも、彼は僕たちに守られるほど弱くない。

そんな彼を守るには。

「……絶対なってやるさ」

セプが、拳を握り締めながら言った。

「誰にも僕たちのアッシュは傷つけさせない。そのためなら何だってやってやるよ」

どんなに厳しい訓練でも、絶対に乗り切ってみせる。

それが僕らにできることだ、とセプは珍しく笑った。

そうだね、と僕も笑った。

少しして、セプの番が来て、セプは呼ばれていった。

代わりにルミナが戻ってくる。

「お疲れ、ルミナ」

「ふあ、今日もアッシュに一撃も浴びせられなかった」

タオルで汗を拭いて、ルミナは一人ごちた。

「いつになったらアッシュより強くなれるんだろうな」

さっきの僕とセプの会話をルミナが聞いていたはずは無い。

だったら、僕たちの考えていることは、いつも一緒だってことだ。

「さっきセプとも同じ事を話してたよ。でも、いつか絶対追いついてみせるって」

僕の言葉を聞いたルミナは、一瞬きょとんとして、すぐにはにかんだ。

「抜け駆けはさせねーからな。行く時は、三人一緒にだ」

今度は僕が目を丸くする番だった。

でも、すぐに顔に笑みを浮かべる。

「うん、みんなで、絶対にアッシュに追いつこう」

みんなで一緒にアッシュを守ろうと、笑いあった。


みんなで汗を流して、昼ごはんを食べた後、アッシュは僕たちに本を渡した。

「俺はこのあと、少し出かけてくっから。帰ってくるまでに、この本を読んでおくこと」

手渡された本は、基礎音素学の本。

「素養がなくても、譜術については学んだ方がいいからな。ルミナ、サボんなよ」

ルミナは勉強が嫌いだ。

表紙を見て既に唸っている。

アッシュに釘を刺されて、唸りの声が大きくなった。

その様子をみて笑って、アッシュは少し大きな布袋を担いだ。

「アッシュ、どこに行くの?」

なんだか少し、嫌な予感がした。

「んー、そーだな、ちょっと」

その気持ちが顔に出たのか、アッシュは僕の頭の上に手を置いて、ゆっくり撫でた。

それだけで、ちょっと安心できた。

だから、次に言われた言葉も、ただ意味通りにとった。

「遠出をな」

そう笑って、アッシュは僕らが住んでいる家を出た。

僕らは、見えなくなるまでアッシュを見送っていた。

そして。


アッシュはいつまでたっても、帰ってこなかった。


彷徨う声
(大切なものを、見失ってしまった)