ぶんぶんと、勢い良く風が切られる音を耳にして、おやと首をかしげた。 今、(残念ながら、本当に)門下生のいないここでは、道場を利用する人などいない。 たまに自分が使うものの、本当にそれだけだ。 まさか姉上ではないだろうと、音がする道場の方へ向かってみる。 やはりそこでは、木刀が勢い良く空を切っていた。 その持ち主は。 「夕君」 「あ、新八兄。おじゃましてる」 声をかけると、現在万事屋に居候中の夕君は、律儀に手を止めてお辞儀をした。 いつの間に入っていたのか知らないが、おそらく姉上の許可を得ているだろう。 「剣の練習をしたいって言ったら、銀さんがここを勧めてくれて、妙姉さんが許可をくれたんだ」 ……二割がた、予想通り。 「剣?」 江戸では耳慣れない言葉だ。 確か、天人や遠い国ではそんな武器もあると聞いていたが。 夕君もおそらく天人だろうから、故郷で覚えたのかもしれないが。 「あ、新八兄も、やっぱりなじみが無いんだ」 「うん、江戸では珍しいね」 既に誰かに似たような反応をされているのだろう。 夕君はその答えを予想していてようで、むしろ納得したような顔だった。 「銀さんが、ここを勧めたの?」 驚きの大半を占めたのは、それだ。 いや、銀さんが手ずから教えることはないと思っているけど、 まさか練習場所にここを勧めるとは思っていなかった。 「ああ、うん。ここなら周りに迷惑がかからないからって」 それは夕君に対する配慮なのか、僕の家に対する配慮は果たしてあるのだろうか。 考え込んでいると、夕君がこてりと首をかしげた。 「いけなかったか?」 「あ、ううん。そういうわけじゃないよ。 姉上が既に許可してるなら、僕からは何も言うことはないよ。ごめんね、邪魔して。続けて」 夕君がこくりと頷いて、再び木刀を振り始めた。 道場の中に入り、端でその様子を眺める。 剣と刀では刃の形とか向きとか色々違うらしいが、いいのだろうか。 腕とか反応を鍛えるような鍛錬なら、それでいいのかな。 そこでぼんやりと夕君が素振りしているのを眺める。 ちょっと木刀が重そうだけれども、その動きにはよどみが無い。 「夕君、何か流派を習ってたの?」 また鍛錬を中止させることになってしまうとは思っても、聞かずにはいられなかった。 それほどまでに、何か統一された流れの感じられる動きだった。 少しだけ間を空けた後、夕君は手を止めずに、小さく口を開いた。 「ん……一応。基本だけ習って、後は実戦演習みたいなものだったけど」 「試合ってこと?」 「そんな感じ」 それはまた大胆な稽古だ。 実際に戦ってみなければ身につかない、とかそういう考えだったのだろうが、 にしてもこんな幼い子供にまでそれをやらせるとは。 いや、自分も小さい頃から剣道を習っていたし、何回か試合形式で稽古もさせられたっけ。 ……大体父上、時々門下生の人、たまに……姉上。 当時を思い出してぶるりと身を震わせた。 忘れよう、あのことは忘れてしまおう、思い出せなくていい! ぶんぶんと首を振る。 少し心を落ち着けて、気がついたら目の前に夕君がいた。 ……びっくりした。 「ど、どうしたの?」 「新八兄の方がどうしたんだ?急にぶんぶんと頭を振って」 う、確かに端から見れば怪しいかもしれない。 「なんでもないよ、あははは」 我ながら乾いた笑いだ。 しかし幸か不幸か、夕君は意味が分からなさげに首をかしげた。 話題を切り替えようと、よし、と気合を入れなおした。 「稽古したら疲れたでしょ?何か食べようか」 「え、マジで?」 夕君が嬉しそうに顔をほころばせる。 子供相応のその笑みに、自然と自分の顔も緩むのを感じる。 「うん、確か何かお菓子があったと思う。お茶にしようか」 「やった!」 夕君が嬉しそうに、とたとたと先に廊下を走る。 しばらく走って、待ちきれないように、その場で足踏みをした。 「新八兄、早く早く!」 「今行くよ」 その姿に苦笑しながら、少しだけ足を早める。 夕君に追いついて、それから並んで歩いた。 「お菓子を食べたら、僕も稽古につきあってあげようか」 「本当か!?」 夕君が目を輝かせる。 どうやらこの子は、稽古が好きらしい。 今時少々珍しいが、悪くない。 道場が、少しだけ賑やかになるだけだ。 そしてそれはむしろ嬉しいことだ。 「うん、僕でよければ」 「早く食べてやろう、稽古!」 夕君がまたとたとたと走っていく。 「走るとこけるよ!」 声高にそう注意した。 大丈夫だって、とその声が遠ざかりながら低くなっていく。 ドップラー効果って言うんだっけ? そんなことを考えながら、足早に夕君の後を追いかけた。 玄関に近い食卓に近づくにつれ、なにやら賑やかな声が聞こえてくる。 誰か、客でも来たのだろうか。 近づきながら耳を澄ませてみる。 どうやら、その声らは、とうに耳慣れた声たちのようだ。 また、顔が緩んでいる。 それを自覚しながら、今度は走り出した。 五人分、お茶を用意しなければ。 四人+一人の輪 (人って、案外簡単に環境に馴染んでいくもの)