息を潜め、草むらに身を隠す。

音を、立ててはいけない。

気配を悟らせてもいけない。

たとえ一瞬でも、存在を感づかれてしまったら命取りだ。

こんな場所で、こんな場所で死ぬわけには行かないのだ。

自分にはまだやるべきことがある。

他の仲間が今どうなっているのかも分からない。

それを知るためにも。

こんな所でやられるわけには行かないのだ。

必死に気配と息を殺し、耳をそばだてれば、荒々しい物音が聞こえてくる。

もちろん、自分の仲間の者ではない。

ならば消去法で答えは一つ。

どくり、どくりと心臓がけたたましく鳴っている。

うるさい。

これはあいつらに聞こえてはいないだろうか?

どくり、どくり。

物音が、聞こえてくる。

こちらに近づいてくるのが、分かる。

少しずつ、大きくなっていく。

ちくしょう。

来るな見るな聞くな気付くな。

来るんじゃねえよ!

どくり、どくり。

瞑りたくなる目をかっぴらき、草むらの隙間から外を凝視する。

音が、どんどん近づいてきて。

はっきりと、聞こえるようになって。

そして、ふと、音が、止んで。

止んで。

視界に。

影、が。









どくり。
























「兄さん!」

ばちんと、風船が割れたような音を聞いた気がした。

視界には、古びた紙と文字の羅列。

それから大量の本。

俺は、俺は。

「全く、さっきから呼んでいるだろう。いつまで書庫にこもってるんだ」

俺は?

「兄さん、聞いてるのか、兄さん?」

殆ど反射で、声のした方を向く。

吊るされた小さな電灯。

その明かりの下で、俺を見ていたのは。

「…………ヴェ、スト?」

漏れたのは、自分でもよく分からない吐息。

何度も何度も瞬きをする。

そうだ、ヴェストだ。

ヴェスト、ヴェスト、俺の弟、ドイツ。

「……兄さん?どうかしたのか?」

ヴェストが首を傾げた。

視線を戻す。

手の中には、古びた紙と文字の羅列――否、これは日記だ。

俺が、今まで、何百年と生きてきて、書き溜めてきた日記。

その一冊。

それを認識した途端、急に意識がはっきりしてきた。

現実感が戻ってきたというか。

「わり、ちょっと熱中してたぜ」

弟に向き直り、ケセ、と笑ってやる。

それだけでヴェストは、訝しげな様子を引っ込め、呆れた様子に変わった。

「昔の記憶に熱中するのはいいが、限度を考えろ。もう夕方だぞ」

そう言ってヴェストは踵を返す。

「げ、もうそんな時間かよ」

座っていた場所――書庫に備えた椅子――から立ち上がって、

手に持っていた日記を閉じ、所定の位置にしまった。

俺の日記が収められている書庫は、地下にある。

光源は上から吊るしている電灯のみで、外の様子は分からない。

だから時間がよくわかんないうちに熱中しちまったんだな、うん。

一人自分を納得させて、先に書庫を出て行ったヴェストを追いかけた。

そうして地階に上がってみれば、案の定、外は暗くなり始めている。

……あれ、俺、どれだけ地下にいたんだっけ。

明るいうちから……こもっていた様な気はする。

「明日から世界会議なんだ。準備はちゃんとしておいてくれ」

考えにふけるのをやめて、ヴェストの声の方に意識を傾ける。

ああ、そうだった。

明日は、フランスんとこで世界会議で。

俺も行くことになっていて。

そんで、そのための資料の準備があって。

「っああーっ!!まだ輸出に関する資料まとめてねぇぇぇ!!」

ばたばたと自室に戻って、PCの電源を入れる。

ああ、もう!

「暗くなる前に呼べよな!」

PCの電源が付くまでに、そんな八つ当たりに近い発言をヴェストにぶつけてみれば。

「だから呼んだだろう。完全に暗くなる前に」

返って来たのはそんな冷たい声。

いやそりゃ確かに、まだ完全に暮れきってはいないけどよ。

だからって……。

「同じことを繰り返したくないのならば、今度からは時計でも持ち込んでおけ」

……ちくしょー。


ざかざかと資料を纏め終え(そこは万能な俺様、さして時間もかからずに終わった)、

明日に備えて整理しておく。

そこでふと、デスクの隣にあった日記が目に付いた。

日記。

ブログ更新を始めた今でも、日記は毎日書き続けている。

あれだな、もうここまで来たら習慣だ。

つけてないと気持ち悪い。

日記を手に取ると、昨日までのことが記されている。

当たり前だ。

それが日記だ。

でも、書かれていることは、あの頃……

さっきまで思い馳せていた頃とは、全く違う。

内容がではない(内容が違うのも、また当たり前だ)、書くことがだ。

ここ数日の日記を振り返ってみたが、

書いてあるのはなんとも平和なものばかりだった。

ヴェストと軍の方に顔を出しに行ったとか、イタリアちゃんが遊びに来たとか、

フランスん家に飲みに行ったとか。

文を読めば、つい数日前のことばかりだから当たり前だが、

すぐ頭に思い返される情景。

たるんでた兵を鍛えなおしたとか、昼はイタちゃん特製のパスタを食べたとか、

フランスん家ではスペインが乱入して来たとか、連鎖的に記憶が浮かぶ。

そんな、そんな、些細で平和なことばかりが。

そう、あの頃からしたら、まるで夢のような。

今からすれば、あの頃がまるで夢のようだというのに。

否、あれは夢ではない。

確かにあった現実で、俺が経てきた過去だ。

あの時敵対していたのは果たして誰だったか?

坊ちゃんか?ハンガリーか?フランスか?イギリスか?

よく覚えていない。

あれ、いつの頃の日記だったっけか。

下手をしたらもっと前の頃かもしれない。

とにかく、あの頃はああして、削り合い毟り合い削ぎ合い殺し合った奴らと、

明日は仲良く机並べて会議だ。

時代は変わったな、なんて、こんな時に強く思う。

自分の考えに、思わず笑いが漏れた。

おいおい、俺はおっさんかっつの。

そりゃ、もう千年近くは生きてるけどよ。

でも……多分これで良かったんだろう。

たとえ今が、大戦の間の仮初の平和だとしても、

失われる命はそりゃ少ないほうがいいに決まってる。

うん、平和が一番。

なーんて、俺には似合わねえ台詞かな。

また小さく笑いが漏れた。

あーあ、年食うと独り言が多くなっていけねえな。

デスクの傍らに転がってたペンを取る。

昨日のページから一枚めくって、今日の日付を書いて。

今日は久しぶりに地下の書庫で昔の日記を読んだこと、

すげえ懐かしかったからついつい読みふけっちまったこと、

そんでヴェストに怒られて戻ってみればもう日が暮れていたこと。

明日はフランスで世界会議で、小国も含めて、色んな国が参加予定であること、

俺もドイツの一員として参加すること……

明日くらいは、他国に喧嘩吹っかけなくてもいいかと思ったこと。

そんなことを、つらつらと書き記す。

日記を閉じて、ん、と背筋を伸ばせば、

ちょうどいい具合に階下からヴェストの声が聞こえてきた。

「兄さん!準備は終わったか?夕飯だぞ」

「おーう!終わったぜ、今行く!当然ビールはあるんだろうな?」

疑問系だが、確定だ。

あるに決まってる。

俺達兄弟の血はビールなんだから。

PCも閉じて、立ち上がる。

「今日の夕飯なんだー?」


そうして、今日の締めの一杯をやるため、階下に駆け下りた。


夢後日記
(こんな日が一日でも長く続きますように)