不公平な天秤


「ヒナタ」

名を呼ばれたから、振り返った。

ネジも、手を止めて彼の方を見る。

一気に場の注目を一身に集めた彼は、それでもヒナタの方を向いたまま、一言。

「止めた」

その言葉は、静まり返った会場に、響き渡った。


中忍試験、第三次試験予選。

日向ヒナタ対日向ネジ。

ヒナタとはかねてよりの因縁を持つ、戸籍上は、従兄弟。

その数奇な対戦カードは、それはヒナタの頭を悩ませた。

今のヒナタは、実力を隠し、下忍を装っている立場。

下忍の日向ヒナタは、日向ネジには決して勝てない。

確執を考えれば、殺されてもおかしくはないくらいだ。

しかし、ヒナタは毛頭死ぬ気はない。

愛しい人の傍にいられる現在を、至極幸福であると思っているからだ。

だが、任務破棄をしては、それはそれであの人に迷惑をかけることになる。

けれど、日向ネジに瀕死近くにまで追いやられるのは、それは不快なことだった。

それでも、あの人と天秤にかけてみたら、簡単に傾いたので。

ヒナタが負けることを決めた時だった。

凛と響いた言葉を理解できたものが、この場にいるだろうか。

当事者と、一人を除いておそらくいない、とヒナタは思った。

誰もが、場にそぐわない言葉に、呆然としていた。

彼、ナルトはす、とその場所から姿を消して、三代目火影の元へ。

その動きは音もなく、気配の乱れもないものだったが、

今、それについて口を挟むことが出来るものはいなかった。

「三代目、出すぎた真似かとは思ったが、如何せん俺は沸点がそれは低いんでな」

その動きのまま、ナルトは三代目の傍に跪く。

三代目は、盛大なため息を、吐き出した。

「分かっておる。もはや後戻りは出来ん、好きにするとよい……事後処理については、後で論じよう」

「そのつもりだ。ヒナタ!」

ナルトは三代目から少し離れて、立ち上がる。

「はい!」

ヒナタはネジのことなど気にしないかのごとく、すぐさまナルトの方を向いて、佇まいを直した。

「三代目から許可が出た。好きにしていい」

「……良かったの?」

ヒナタが小さく首をかしげる。

それにナルトは、くっ、と小さく笑った。

「お前と天秤にかけられるものなんて、無い」

その言葉の意味を理解できたものも、当事者と例外の一人、

つまりナルトとヒナタと三代目を除いて、果たしていただろうか。

頬を赤く染めたヒナタに気付いたのならば、理解できたのかもしれないが、

観衆は、急に態度を変えたナルトに釘付けになっていた。

「ナ、ナルト、あんた一体どうしちゃったの?」

サクラが恐る恐る尋ねたが、ナルトは返事をしない。

三代目から少し離れた場所に立ったまま、ヒナタをじっと見ていた。

二人は互いに頷きあって、ヒナタはネジに向き直る。

「そういうわけでネジ兄さん、許可も出たし、ここからは手加減なしで行くわ。

入院したくないのなら、今すぐ棄権をお勧めするけど」

にっこりと笑って言ったヒナタは、先ほどと同じ構えを、しかし隙なくする。

ネジはそれに気付きつつも、今更引き返せない、と同じく構えを取った。

それを見て取ったヒナタは、構えを崩さないまま、小さく笑う。

「ばかな兄さん」

その笑い方に、カカシは既視感を覚えた。

その、冷たく透き通った氷のような笑い方には、覚えがあった。

だが、誰なのか思い出せない。

靄がかかったように、その影は霞んでいた。

一瞬の静寂の後、ヒナタは僅かに動いた。

ネジは既に床に倒れ伏せていた。

「え!?」

「何だ、今の……」

「ヒナタ、何をしたんだ?」

観衆には、突然ネジが倒れたようにしか見えなかった。

しかしヒナタは、殆ど身じろぎしただけで、そこから一歩も動いていない。

ヒナタはふう、と息を一つ吐いて、構えを解く。

それから、ナルトの方を見上げた。

ナルトは微笑んで、一度頷く。

それから手招きをしたので、ヒナタは一足飛びでナルトの元に駆け寄った。

「相手は意識不明により戦闘続行不可。そうですね、三代目」

「うむ、勝者、日向ヒナタ。医療班!」

未だ呆然としている審判の代わりに、三代目が勝利宣言をした。

それから医療班を呼びつける。

医療班は手早くネジの診察をし、顔を真っ青にして、急いで連れ出していく。

「ちょっといじっただけだから、緊急ではないと思うけどね」

ヒナタの声に、全員が慌ててヒナタの方を向いた。

それから、ようやく時間が動き出したかのように、わめきだす。

「ヒナタ、一体どういうことなの!?」

「ネジに何があったの!?」

「今、何をしたんだ!」

「ナルト、あんたもよ!」

「お前、ナルト、だよな?」

「三代目、説明を求めていいですかね」

殆ど同時に発したせいで、言葉が重なってはいたが、大体内容は似たようなものだった。

ナルトは、気を尖らせて一言。

「煩い」

ぴしりと、再び時間が止まったかのように、全員が固まった。

それを面倒くさそうに見やってから、ナルトは傍のヒナタに指示を出す。

「せっかくだ。日向にも啖呵を切って来い。死人が出なければ、好きにしていい。

後始末は三代目がしてくれる」

「はい」

「他人任せな奴よのお」

ヒナタがすぐさまその場からいなくなった。

それから三代目の零しに、ナルトは嬉しそうに笑う。

「ようやくヒナタが正式にあの檻から出られるんだ。俺がその機会を見逃さないわけはないだろう?」

「そうじゃのう、お前は、そういう奴じゃった」

三代目が、複雑な顔をしながら頷いた。

ナルトは満足そうにそれを見やって、それから僅かに空気が震えたのを感じ取って、その元を辿る。

「何か、言いたそうな顔をしているな、はたけカカシ」

雰囲気からその内容を感じ取って、ナルトは、カカシに確信を持たせるため、小さく孤を描いた。

「言ってみろ、別に殺しはしない」

「!!」

カカシはそれに目を見開いて、一歩後ずさった。

「カカシ、お前、何か知ってるのか!?」

アスマがカカシに駆け寄って問いただす。

だがカカシはアスマを見向きもせず、ゆっくりと瞬きをして、確かにその視界にナルトを収めた。

それから、音にもならない息を吐き出した後に。

「……せん……」

「は?」

カカシの呟きが聞き取れず、アスマは聞き返した。

カカシはやはりその目線をナルトに向けたまま、もう一度呟く。

「螺旋、隊長……暗部、総隊長、の……」

「は?」

「暗部総隊長!?」

カカシが固まり、上忍たちが驚き、下忍たちが話についていけずにおろおろとしている中、

ナルトは小さく笑ってから、一言残してその場から消え去る。

「どいつもこいつも、くだらない奴ばかりだ。秤にかける、価値もない」


掻き消されるように消え、そこには混乱だけが残された。


不公平な天秤
(もう、何を乗せても、逆に傾くことはない)