ふと、金吾は手を伸ばした。

それから、何度も目を瞬かせる。

その手は、何も掴まなかった。

当たり前で、必然で、それ以外ありえないはずの結果に、金吾はなぜか喪失感を感じた。

体育委員会で、マラソンをしている時だった。

体育委員長となった滝夜叉丸は、最初は一年生でも走れる距離にし、

それから徐々に距離を伸ばしていくという方針を採っている。

そのおかげで、マラソン途中で一年生が倒れることはぐっと減った。

金吾とて、もう二年も体育委員会で走り続けているのだ。

今走ったぐらいの距離では、もう息も切れない。

一度周りを確認しようと立ち止まった時に、無意識に、金吾は手を伸ばしていた。

自分でも訳が分からず、金吾はしばらくそこで立ち止まって呆然としていた。

「金吾、どうしたの?」

すると、同じように周囲の様子を見るために立ち止まった四郎兵衛が、

駆け寄ってきて、少し屈んで金吾の顔を覗きこんできた。

成長期に入り、ぐんと背が伸びた四郎兵衛は、

結構屈んでようやく金吾と視線を合わせられる高さになる。

それに驚きつつも、金吾は首を振る。

「何でもないです」

「そう?どこか悪いところがあったらすぐに言うんだよ」

四郎兵衛はそういうと、金吾の大分後ろにいるであろう、新入生の様子を見に行った。

それを見送りつつ、金吾は宙を掴んだ手を見やる。

寒いわけでも、痛いわけでもない。

理由が分からないまま、金吾は四郎兵衛が一年生を連れて戻ってくるまで、

そこで立ち止まっていた。

途中で三之助がいなくなり、滝夜叉丸が怒りながら探す羽目になったが、

五人は滝夜叉丸が定めておいた目的地に無事に辿り着いた。

「何でこの距離で迷子になるんだお前は!」

「迷子になってないですって。みんなが急にいなくなっただけで」

未だに方向音痴無自覚の三之助は、滝夜叉丸に叱られながら首を傾げる。

その少し離れたところで、金吾と四郎兵衛は、へとへとの一年生を介抱していた。

「何で先輩たちはーそんなに元気なんですかー?」

息はもう切れていないものの、気合の入っていない声に、金吾と四郎兵衛は笑い合う。

「いやあ、二年前の委員長がすごい人でねえ。そこでたっぷり鍛えられたから」

その言葉に、金吾はおや、と思った。

もちろん、その人を、二年前の委員長を知らぬわけではない。

たっぷり鍛えられたという言葉も間違っていない。

何しろ金吾本人も、嫌というほど体験済みだからだ。

首を傾げたのはそういうことでなく。

「金吾?」

「あ、ええ。初日は気付いたら意識飛ぶくらいでしたからね」

四郎兵衛に話しかけられて、慌てて金吾は思考を戻す。

一年生は、少し嫌そうな顔をした。

「意識飛ぶって……どれくらい走ったんですか?」

「さあ、ぼくは途中で気絶したわけだから。時友先輩、その時走った距離覚えてますか?」

「ああ、新入生が入って、七松先輩張り切ってたからね。山五つは行ったね」

「五つ!?」

ちなみに今、体育委員会の面々が休んでいるのは、その時通った一つ目の山の頂上である。

新入生がそれを想像している中、金吾は再び何かが意識に引っかかったのを感じていた。

今のそう長くない会話の何かが、気になっていた。


帰り、滝夜叉丸は速度を落としながら先頭を走っている。

その後を、三之助が逸れないように四郎兵衛が見張りながら追いかけている。

金吾は、そろそろ体力の限界らしい一年生に手を伸ばした。

「手を出して。あと少しだから、頑張れ」

すると、一年生は息を切らしながらも、ゆっくりと手を伸ばした。

自分の手の中に、一年生の小さな手が重ねられて、金吾はその手を握り返す。

なんだか懐かしい、と思った途端、金吾は先ほどから感じていた感覚の正体を知った。

息を切らす一年生、その手を引く“先輩”の手。

必死に追いかけていた自分。

いつもいつも、追いつこうとして伸ばしていた手。

だが、その先がいなかったから。

その先にあったものが見えなかったから。

金吾は、酷い喪失感に襲われたのだ。

それは突然真っ暗闇に放り出された感覚にも似たもの。

「何で今、思い出したんだろ……」

五つも上の先輩を目標にしていた自覚はあった。

なので卒業した時も寂しくはあったが、今金吾が感じているのは、それ以上の喪失感だった。

委員会中という共通点はあるが、それにしても唐突だった。

今度はその理由が分からず、金吾は思わず呟く。

「皆本、先輩?」

すると一年生に尋ね返されて、金吾ははっとした。

その手は、小さな小さな手と繋がっている。

今、その手を離すわけには行かないのだ。

「さ、もう一息だよ」

「は、はいっ」

気合を入れ直した一年生の手をしっかりと引いてやる。

その体温が、こそばゆく感じる。

先輩もこうだったのだろうかと、金吾は先ほど思い出した先輩の顔を思い浮かべる。

自分もそうして手を引かれていたのだと思うと、

金吾はどこか恥ずかしいような嬉しいような切ないような、複雑な思いに駆られた。


金吾は、まだその感情の名前を、知らない。



途絶えた影
(追いかけていた人は、もう此処にはいないのだと)