「寂しいものだね」

「どうしたんだ雷蔵、突然」

雷蔵と兵助は、長屋の廊下で座り込んで話していた。

ちなみにろ組の廊下側、雷蔵と三郎の部屋の前である。

雷蔵は兵助の問いに、うん、と言ってから遠くを見ながら答えた。

「僕達は今、こうして同じ学び舎で勉強しているけれど……

それもあと一年と少しでお終い。僕達はそれぞれ自分の選んだ道に行く。

もしかしたら、敵同士になるかもしれない」

忍者という職業に就くのなら、それは十分ありえることだった。

忍者の就職先はそれなりに細分化しているし、味方よりは敵の手勢の方が多い。

互いに争わない場所に就職できる確率など、とても低いのだ。

「そうなったら、僕達は戦わなくちゃいけない。忍として。

まるで、ここで過ごした時間が無かったかのように。

それはとても寂しいものだと思わないかい?」

雷蔵の言葉に、兵助は少しだけ眉尻を下げた。

兵助には、雷蔵の言葉こそ寂しいものに聞こえたのだ。

雷蔵の話は、確かに十分ありえるものだ。

兵助もそれはよく分かっている。

だが、それは自分達が忍になることを、当たり前のこととして受け止めているが故の話だ。

もちろん、忍術学園とは忍になるための学校である。

最後までその過程を乗り越えたのなら、忍たまは忍になる。

それはいずれ訪れる必然だ。

雷蔵は、兵助たちならばその過程を乗り越えるだろうと、信じているとも取れる。

忍たまから、忍へと変わる、その過程を。

その間に引かれている境界線を。

兵助には、それは嬉しくもあったが、それ以上に寂しく感じたのだ。

忍になることを受け止めているということは、

その境界線を乗り越えることを受け止めているということだ。

確実に、自分の中の何かが変わってしまう、その境を。

雷蔵は、既に受け止めてしまっていた。

数年来の、友人が少し遠くに離れていってしまったように感じた。

「……寂しい、な」

「そう」

雷蔵の質問にではなく、ただ呟いた兵助に、雷蔵は微笑んで頷いた。


「なあハチ、ちょっといいか」

「よう。どうした兵助、改まって」

生物小屋で、兵助は八左ヱ門を見つけて話しかけた。

どうやら本日は脱走者はいないようである。

生物委員の後輩達は、少し離れたところで動物達に餌をやっていた。

それをぼんやり視界の端に映しながら、兵助は八左ヱ門に問いかけた。

「俺達は、誰なんだろう」

「は?」

突然の、曖昧で抽象的な質問に、八左ヱ門は思わず問い返した。

兵助はもう一度同じ問いを繰り返す。

どうやら自分の聞き間違いではないと判断してから、八左ヱ門はもう一度問い返した。

「何だ、突然?」

「……色々考えていたら、よく分からなくなって来たんだ」

その苦々しげな言葉に、八左ヱ門は、

兵助はどうやらそのことで随分悩んだらしいと察した。

兵助は自分でよく考えもせずに人に尋ねる者ではないことは、八左ヱ門もよく知っている。

つまり、よく考えても兵助にはその問いの答えが出せなかったわけで。

ということは、額面どおりの言葉ではないのだろうと、八左ヱ門にも推測できた。

自分達は、誰か。

八左ヱ門も自問自答してみたが、その答えは一つしか思いつかなかった。

思いつくまま、それを口に乗せる。

「忍術学園の、五年生。忍者の卵」

簡潔で明解な答えだ。

おそらく、それは兵助が本当に求めている答えではないだろうと思ったが、

八左ヱ門はそれでもそう告げた。

八左ヱ門にとっての、今の自分とは、それしかなかったからだ。

「お前は多分難しく考えすぎてんだよ。もっと単純に考えてみたらどうだ?」

忍術学園のい組は、学年を通して優秀な傾向にある。

そして彼らは時に、理論ばかりが先立って些細なことに躓くのだ。

兵助は八左ヱ門の助言に、ふっと笑って、応えた。

「お前は単純明快でいいな」

「お前が面倒なんだよ」

「……違いない」

兵助は八左ヱ門に礼を言って、そこから離れた。

八左ヱ門はそれを見送って、呟く。

「ほんと、面倒なヤツ」


兵助は、部屋でぼんやりと考えていた。

八左ヱ門は、自分の存在について確固たる定義づけを持っていた。

そしてそれに自信を持っている。

(俺は、どうなんだろう……)

八左ヱ門の言い方に則るのならば、兵助も確かに、忍術学園の五年生であり、忍たまだ。

だが、兵助にはそれは満足のいく答えではなかった。

「うーん……」

「どうしたの、兵助」

唸っていると、後ろから声がかかった。

少し遠くから、その気配を感じていたから、兵助も特に驚くこともなく振り返る。

そこにはやはり予想していた、級友の姿があった。

「兵助が悩むなんて珍しい」

「勘右衛門」

名前を呼ばれた勘右衛門は、一度笑って、兵助の横に座った。

「どうしたの?俺で良かったら話を聞くけど」

兵助は、一度迷うような素振りを見せてから、口を開いた。

「勘右衛門、俺達は、誰なんだろう?」

「へ?」

勘右衛門も、八左ヱ門と同じように、呆然とした声を上げた。

だが、聞き返すことはなく、自分で言われたことを復唱する。

「俺達は、誰……?」

勘右衛門にも、それが単純に、

自分の名前や所属について問うている質問ではないことは分かった。

しばらく勘右衛門は考えるようにしてから、こてんと首をかしげる。

「誰だろうな?」

「聞き返すなよ」

思わず兵助は突っ込んだ。

はは、と苦笑しながら勘右衛門が続ける。

「誰だっていいんじゃないか?」

「え?」

今度は兵助が聞き返した。

「俺だって、自分が誰かって言われたら、よく分からないよ。

でも、きっとみんなそんなもんだ。だから、きっと分からなくていいんだ」

別段変わったことではない。

分からないままで別に構わないのだと。

勘右衛門はそう言った。

「だから、あんまり悩まないほうがいいんじゃないか」

そして最終的に八左ヱ門と同じことを言った。

兵助はしばらく沈黙を保った後。

「ありがとう、勘右衛門」

それだけ言った。


「雷蔵、いるか?」

兵助は、雷蔵と三郎の部屋を訪ねた。

雷蔵に借りていた本を返しに来たのだ。

だが、そこには目的の雷蔵はいなかった。

「雷蔵なら、図書室の当番だぞ」

代わりに、三郎が化粧道具を持ち、鏡に向かって次々と顔を変えているところだった。

どうやら変装の練習中らしい。

その途中に見慣れた顔もたくさんあって、兵助は苦笑しながら、持っていた本を掲げた。

「雷蔵に借りてた本、返しに来たんだ。礼を言っておいてくれるか?」

「いいぞ」

三郎は兵助の方を振り返らずに答えた。

兵助は、雷蔵の方の机の上にその本を置く。

そして、三郎の方に向き直る。

三郎は相変わらず次々と顔を変えていた。

その背に向かって、兵助は話しかける。

「なあ、三郎。俺達は、誰だ?」

すると、三郎の手が一瞬止まった。

少しして再び動き出して、そして兵助の方を振り返る。

そこには、三郎がいつもしている顔、雷蔵の顔があった。

それは殆ど日常のことだから、兵助はそれには驚かなかった。

だが。

「雷蔵か?」

三郎の次の言葉に、思わず身を固くした。

その様子を見て、三郎はやっぱりか、と呟く。

「何でそう思った?」

兵助が聞き返すと、三郎は困ったように笑った。

「雷蔵のことは、私が一番よく知っている」

伊達に何年も、双忍として活躍していないということだ。

もしかしたら三郎も、自分と同じような思いを、

雷蔵に対して抱いたのではないかと、兵助は思った。

三郎が続ける。

「私達が誰か?そうくくったら、忍術学園の五年生としか言いようがないだろう。

それが私達に共通している唯一と言ってもいい要素だ」

それは兵助にも理解できた。

確かに、自分達という範囲区分は少々大きかったのかもしれない。

兵助が頷いたのを見て、三郎はさらに続けた。

「では、お前が誰かと言うのならば、そんなもの、私には決められはしないだろう」

「何故だ?」

三郎の言葉に、兵助が重ねて聞く。

三郎は、当たり前だとばかりに言い放った。

「それを決めるのは、自分が何であるかを決めるのは、お前だからだ。他の誰にも、決める権利はない」

兵助が、目を瞬かせた。

一度、二度、三度。

そして四度目瞬かせたところで、兵助は大きく頷いた。

「……それは確かに、三郎の言うとおりだ」

兵助はなんだか拍子抜けした気がして、大きく息を吐きながら天井を仰いだ。

八左ヱ門が言っていた言葉が、改めて正しかったのだと感じた。

兵助が思っていたよりも、答えは単純なのだ。

確かに、自分の在り様など、他人が決めるものではないだろう。

分かってみれば、それはとても当然のことに思える。

とてもとても遠回りした気がして、兵助はもう一度ため息を吐いた。

そんな兵助を見て、三郎は一度にやっと笑った。

「兵助」

「ん?」

兵助が呼びかけに応えると、三郎は次々と顔を変え始めた。

兵助、八左ヱ門、勘右衛門の同級生を通って、先輩後輩に教員、

果ては見知らぬすれ違った通りすがりの者らしい、兵助が見たことのない顔まであった。

そして最終的には雷蔵の顔に戻って。

「兵助、私は誰だ?」

その問いに、兵助は笑って答えた。

「学園一の変装名人、忍術学園の五年生、鉢屋三郎」

「つまりはそういうことだ」

「ああ。そうだな。ありがとう三郎。雷蔵によろしく」

兵助は三郎に手を振ってその部屋を出た。

その表情はすがすがしい。

兵助は、自室へと足を向けた。

(俺は、忍術学園の五年生、い組、久々知兵助、火薬委員)

兵助は自分を表す名を羅列する。

(“忍たまとして”、悩んでいる)

それは、兵助が悩み始めた出発点であり。

終着点。

本当に、ただの、単純な答え。

そして。

(今は、まだ)


それでいいのだと、兵助は小さく笑った。


境界線に立つ子供たち
(線を引いたのは誰?)