五年の長屋の廊下。

ぶらりと、三郎は手に持った花を揺らす。

やや濃い桃色の花を持つそれは、華鬘草という名だった。

その花を、ぶらぶらと、意味も無く揺らす。

揺らすたびにしなる花に、三郎は不快げに顔をしかめた。

「何をしているの、三郎」

と、廊下の向こう側から、雷蔵がやってくるなり言った。

「三郎が花を持っているなんて、珍しい」

「失礼だな、と言いたいところだが、その通りだ」

三郎はそう言って、花鬘草を雷蔵に投げ渡す。

雷蔵は危なげなくその花を受け取って、改めてまじまじと見た。

その花には、見覚えがあった。

「これ、華鬘草?」

「さすが」

「なんで、この花を?」

特に珍しい花でもない。

その花を、花が好きなわけではない(と雷蔵は記憶している)三郎が持っていたことに、

雷蔵は首を傾げた。

「くの一にこの花で告白された」

「へえ、くの一に……ええ!?」

うっかりそのまま流しかけたが、雷蔵はその意味に気付いて叫び声をあげた。

「三郎が!?」

あまりの驚きように、三郎もやや目を細める。

「……雷蔵、先ほどから何かと失礼じゃないか」

「ご、ごめん、つい」

雷蔵は謝ってから、三郎の隣に腰掛けた。

「誰?」

「さあ、よく知らん」

「そんな……」

仮にも告白してきた女の子だろうに。

雷蔵は非難の目を三郎に向けたが、三郎としてはそれは大変遺憾なことだった。

本当に、よく知らないのだ。

見覚え程度ならあったかもしれない。

何しろ三郎は、変装のため、常々から人をよく観察している。

その途中で、ちらりと視界を横切った者の顔を、何となく覚えているというのは今までもあった。

しかし、内面までとなれば、話でもしないと分からない。

一度話をすれば、忘れることはないだろう。

そして三郎には、彼女と話した記憶は無い。

だから、三郎はそのくの一のことを殆ど知らない。

しかし雷蔵が見る限り、三郎が先ほど顔を顰めていたのは、

どうやらあまり知らないくの一から告白されたせいではないらしい。

では何故なのだろうか、と理由を考えて、考えて、どれが正解なのか分からず、雷蔵は困ってしまった。

仕方が無いので、雷蔵は本人に尋ねてみる。

「それで、どうして不機嫌だったの?」

「雷蔵、その華鬘草の、花言葉を、知っているか?」

三郎は、未だ雷蔵の手にある花を指す。

「え?」

雷蔵は華鬘草を見たが、その花言葉はすぐには思い浮かばなかった。

「“あなたに従います”だ」

三郎がそう付け加えてくれたので、雷蔵は何となく、三郎が不機嫌だった理由が分かった。

その名前も分からぬ彼女がそれを渡したのは、華鬘草の花言葉を、

告白の言葉として届けたかったのだろう。

つまり、その花言葉が彼女の意思。

三郎についていきたいという意思だ。

そしてその意思に、三郎は不機嫌になっていたのだ。

三郎は、束縛されるのを何よりも嫌う。

いつも自分の思うがままに行動し、その意志を貫く。

人が生まれた時から束縛されているはずの、顔というものも、

変装名人の三郎からしてみれば、それは彼を束縛するものたり得ない。

その三郎に、あなたに従う、という言葉が届いた。

それは、自分に従属するものを持つという、ある意味での束縛だ。

だから三郎は不機嫌になったのだ。

自分を束縛しようとする者がいるから。

そこまで考え付いて、雷蔵は仕方ない奴だなあ、と笑った。

「確かに、この花はお前には似合わないね」

と、先ほど三郎がしていたように、その花を揺らす。

三郎にとっては、くの一から告白されたことなどどうでもよかったのだ。

ただ、束縛しようとする者がいたから、腹を立てただけ。

複雑なようで実は単純。

内心でため息をつきつつ、雷蔵は小さく苦笑する。

それから、何もせず、いらいらと不毛なことをしていた三郎のために、

雷蔵は記憶の中から必要な知識を取り出した。

「三郎、泡盛升麻という花を知っているかい」

いきなり話題を変えた雷蔵に、今度は三郎が首を傾げた。

「いや。それはどういう花だ?」

「白くて小さな花をたくさんつける、とても可憐な花だよ。裏山のふもと辺りに咲いていたと思う」

ますます話の先行きが分からず、三郎は怪訝な顔をした。

「それが?」

「お前に似合うのは、きっとそういう花さ」

にっこりと、雷蔵は笑って言った。

「その花を摘んで、その子に渡しておいで。

返事はお前の自由だけれど、どちらにしても、きっとすっきりすると思うよ」

三郎はしばらく雷蔵の言った言葉を考えるように、宙に視線をやる。

少ししてから、いつものように、にやりと笑っていった。

「雷蔵、君は私に可憐な花が似合うと思うのかい?」

「似合うさ、きっと」

雷蔵は迷わずに言い切る。

しばらくそのまま見つめ合って、それからどちらともなく笑い出した。

いくばくかすっきりした顔で、三郎が立ち上がる。

「ありがとう、雷蔵。行って来るよ」

「行ってらっしゃい」

手に華鬘草を持ったまま、雷蔵は手を振って三郎を見送った。

華鬘草が揺れる。

まず、図書室に行くのだろう。

雷蔵の言葉の、自分の解釈が正しいのかどうかを確認するために。

そしておそらく裏山に行くのだ。

「白は、何にも染まらぬ色、花言葉は、“自由”」

今はもう姿も形も見えない相方に、雷蔵は微笑んだ。


「まさに、お前そのものじゃないか」


花の告白
(私は自由なのだ、自由でありたいのだ)