きり丸は、自分の目に入った光景が信じられず、何度も瞬きした。 だが、何度繰り返しても、目の前の光景は変わらなかった。 道を間違えたのかと、辺りを見回したが、そこは確かに見慣れた風景。 ただ、目の前の、焼け落ちた学園を除いては。 そこでようやくきり丸は、何かがあったのだ、と学園の門をくぐる。 いつも飛ぶようにやってくる、事務員の影すらなかった。 そのことに顔を歪めつつ、きり丸は学園を見渡す。 どこを見ても、焼けた建物しかない。 きり丸は大きく息を吸って。 「誰かいないのか!」 あらん限りの声で叫んだ。 「乱太郎!しんべヱ!土井先生!」 慣れ親しんだ名前を叫びながら、走り出す。 「庄左ヱ門!伊助!」 つい昨日、みんなと机を並べた教室は、もはや原型も残っていなかった。 他、背の高い建物の上層は、跡形もなくなっている。 「金吾!喜三太!」 食堂も、焼け焦げて大きな穴が開いている。 わずかに厨房だけが、元の形を残していた。 「兵太夫!三治郎!」 図書室、医務室、用具倉庫、火薬倉庫、思いつく限りの、人がいそうな場所を探す。 どこにも人の姿はなく、物資の影さえない。 「団蔵、虎若!」 学園長の離れは、完全に吹っ飛んでいた。 軽く土が抉れているようにすら見える。 そして最後に、きり丸は長屋へとやってきた。 つい、数時間前に、出たばかりの部屋。 どこに何があって、どこに汚れがあったかまで鮮明に思い出せるというのに。 そこには、その記憶を躊躇なく破壊する残骸しかなかった。 「何が、あった、てんだよ……」 何とか長屋としての形を残しているその中に、きり丸は足を踏み入れる。 元は古びていながらもしっかりしていた床に触れると、手が炭で汚れた。 足を進めるたびに、嫌な音が響いた。 炭と化した木の割れる音。 それを耳にしながら、きり丸はゆっくりと歩く。 「誰か、いないのか……?」 誰も、いないのか。 声が震える。 それが分かっていながらも、きり丸は止めることができなかった。 足を踏み入れた、自らと、親友達との相部屋に、僅かに、本当に僅かに物が残っていた。 それは、錆びきった二枚の手裏剣。 刃がぼろぼろにこぼれ、もはやその意味を成さなくなっているだろうそれ。 その手裏剣の端に、それぞれ小さく文字が彫られていた。 本来は、文字などとは認識できないほどになっている。 だが、きり丸はそれが文字だと知っていた。 そこに一文字ずつ掘られた文字。 この部屋の持ち主の残り二人の、名前の頭の文字。 誰のものかと分かるように、三人で掘った。 これだけは持ち歩いていよう、いつ何に巻き込まれるか分からないから。 そう笑った、眼鏡をかけた、親友。 そのまま持っていたら、危ないんじゃないかな。 そう心配した、小太りの親友。 その姿が、まるでそこにいるのかのように思い出された。 きり丸は、懐から一枚の手裏剣を取り出す。 それに刻まれた、“き”の字。 三枚の手裏剣を、重ね合わせた。 錆びた二枚の手裏剣と、まだ鋭さを残している一枚の手裏剣。 その差に、きり丸は思わずその手裏剣を握り締める。 錆びた手裏剣は、少しだけ食い込んだだけだったが、自らの手裏剣で、手の皮膚が切れた。 「っ」 きり丸は、その痛みだけではない小さな悲鳴を上げる。 何が起きたのか、まるで分からない。 数時間前までは、確かにここにはたくさんの人たちがいて。 自分の帰りを待っていてくれる友がいて。 とても優しい空間があって。 今の、このどこまでも冷たい空間が信じられなかった。 焼け落ちた部屋。 焼け落ちた。 焼けたのだろうか、ときり丸はそこでぼんやり思った。 また、自分は一人生き延びたのかと。 自分が持っていた全てを命の代償として。 ただ、一人。 あの時と同じように。 「……っ」 涙は、出なかった。 「ちくしょ……」 泣いていても何も変わらないと、頭のどこかで認識している自分が憎かった。 もちろん、それが真実なのだと分かっている。 きり丸はそうして生きてきたのだから。 それでも。 それでも。 自分は流せる涙さえないのかと、きり丸は心の内で叫んだ。 それさえも、この命の代償に失ってしまったのかと。 確かに“悲しい”と感じているはずなのに、感じていると思いたいのに。 それを自分の体が許してくれない。 「ちくしょう……!!」 悲痛な声が、誰もいない空間に木霊した。 手裏剣で負った傷からの血が、ゆっくり固まり始める頃、きり丸は顔を上げた。 何をするかは決まっていない。 でも、行かなくてはならないと思った。 どこかに。 どこかへ。 どこへ。 分からないけれど。 行かなくてはならない、ときり丸は口に出して呟く。 そして、歩き出そうと、した。 もう一度、この光景を見、目に焼き付けようと。 そうして体の向きを変えて。 そのまま、固まった。 相変わらずそこにあるのは。 あったのは。 「……え……?」 きり丸がよく見慣れた自室だった。