きり丸はまた、何度も目を瞬かせる。

それでも、目の前の景色は消えなかった。

さっきまであった、冷たい空間は失せ。

穏やかな風が、部屋に吹き込んできている。

それを認識すると同時に、唐突に、あたりに賑やかな声が溢れた。

そこは、きり丸のよく知る忍術学園だった。

何が何だか分からないまま、きり丸は自分の手を見やる。

そこには、一枚の手裏剣だけが残っていた。

きり丸の、血がついた。

手のひらの痛みは続いている。

「あ、きりちゃん!いつ帰ってきたの?」

靄のかかった思考を切り裂くような、明るい声。

きり丸がのろのろと視線を向けると、そこには、数時間前と変わらない、親友の笑顔。

しかし、その笑顔はすぐに驚愕に変わった。

続いて出た叫び声が、きり丸の、小さな呟きを掻き消す。

「どうしたの、それ!」

彼はすぐにきり丸に駆け寄ると、少し乾いてきた血がこびりついている、きり丸の手をとった。

「手裏剣で切ったの?ああもう、身を守るために三人でそろえた手裏剣なのに!」

これじゃあ意味が無いじゃないか。

そう言い、きり丸の手首を引いて長屋を出る。

きり丸は混乱した頭で、確認するように、尋ねた。

「乱太郎……?」

「きりちゃん、早く医務室行って手当てしないと!」

肯定でも否定でもない返事。

だがそれは、きり丸のよく知る乱太郎の言葉だった。

乱太郎に手を引かれるように、医務室に向かう。

その途中、きり丸はしきりに辺りを見回した。

まるで珍しいものを見るかのような行動だったが、

それを咎める(ほど余裕がある者)はいなかった。

自主トレをしている先輩達。

中にはきり丸の、委員会の直接の先輩もいる。

穴を掘っている者、何かを修繕している者、虫を追いかけている者。

とにかくたくさんの人と、多くの騒ぎが、学園に溢れていた。

時刻を知らせる鐘、見慣れた教室、古びているがしっかりとした門。

さっきは見当たらなかった全てが、そこにあった。

きり丸が帰りたいと思う場所が、そこにあった。

きり丸は、一度自分の頬を軽くつねる。

痛かった。

少なくとも、これは夢ではない、ときり丸は確認する。

その瞬間、口からこぼれた意味の無い言葉は、

多分安堵なのだろう、ときり丸は冷静に分析した。

そんな自分に腹を立てつつも、きり丸は自分の手を引いている乱太郎を見やる。

では、あっちが夢だったのだろうか、ときり丸は思う。

歩きながら、無意識に自分の長屋を目指しながら見ていた夢。

だとすれば、この上なく最低で最悪で、酷い夢だった、ときり丸は呟く。

きり丸を引っ張っている乱太郎には、その呟きは届かなかったらしい。

それから間もなく、医務室についた。


新野先生から治療を受け、両手に包帯が巻かれて。

伊作に手伝って欲しいことがあるといわれ、

医務室に残った乱太郎を置いて、きり丸は医務室を出た。

その際に、無理に手を使わないようにといい含められて。

ぼんやりと、きり丸は歩く。

なぜあのような夢を見たのだろうか、と自問した。

決して見たいものではなかった。

むしろ、見たくないものだった。

だからこそ見てしまったのだろうか、と、考えても分からない思考にふける。

「あーっ!!」

その思考を、大声が遮った。

きり丸が声を方を向けば、そこには口をあんぐりと開けた、秀作。

「きり丸君、いつ帰ってきたの!?ダメだよ、ちゃんと入門票書かないと!」

と言って、入門票と筆を差し出した。

きり丸は、その入門票を凝視する。

名前が、ない。

「小松田さん、ここ十数分、何してました?」

きり丸は筆を受け取らず、秀作に尋ねた。

秀作はしきりに書くように促しながら、不思議そうに首を傾げる。

「門の前で、掃除してたけど?」

秀作の、外出届と入門票を書かせる能力は、有名だ。

たとえ、どれだけ隠れて入ろうとも、秀作の目をごまかせた者など、今までにいなかった。

それがプロの忍でも、先生達でも、学園長さえ。

だというのに、きり丸は、その入門票を書くことなく、学園の、長屋まで入っていた。

秀作は、門の前にいたはずだというのに。

自分が、門を通ったなら、気付かないはずが無いのに。

なのに、入門票に、自らの名前が無い。

そのことが、何を意味しているのか。


きり丸は、考え付いたそれを明確な言葉にすることができなかった。