図書室で、きり丸は本を整理していた。 その手にはまだ包帯が巻かれているものの、もう殆ど痛みはなかった。 きり丸はふと、作業を止めて、その手を見やる。 夢のような話、だが夢ではない傷。 あのあときり丸は乱太郎としんべヱがそれぞれの手裏剣を、きちんと持っていたことを確認した。 ならば、自分が手にした、二枚の錆びた手裏剣は。 気付いた時には消えていた手裏剣は何だったのか。 あれは、二人の手裏剣ではなかったのか。 ならばなぜ、文字が彫られていたのだろうか。 いつまでも気にしていても仕方が無いと思いつつも、 きり丸は考えをめぐらさずにはいられなかった。 「長次」 と、ガラリと図書室の戸が開いた。 呼ばれた長次が、視線をそちらにやる。 そこには、仙蔵がいた。 一冊、本を持っている。 だから、本を返しにきたのだ、ときり丸はすぐに予測をつけられた。 「この本、返す。お前が薦めるだけあって、なかなか面白かったぞ」 長次が小さく(いつものことだが)そうか、と答える。 その少し古びた本が何となく気になって、きり丸は近寄って本を覗き込んだ。 「何の本なんですか?」 「興味あるか、きり丸」 仙蔵が軽く笑って本を差し出した。 きり丸は少し戸惑ったが、長次が何を言わないのを見て、その本を受け取った。 その本の題は、掠れていて読めなかった。 きり丸は本を開いて、ぱらぱらと見やる。 どうやらそれは物語らしかった。 「何の話ですか、これ」 軽く見たところでは、主人公がどこかで迷子になっているらしいのだが。 「世界は枝分かれしているという話だ」 仙蔵がきり丸の質問に答えたが、その意味がよく分からなくて、仙蔵は言葉を付け加えた。 「誰かが何かを選択する度に、たとえば、 分かれ道を右に行くか左に行くかという時に、右を選んだとする。 すると、左を選んだ場合の世界が、そこで枝分かれするように生まれるという話だ」 仙蔵が笑う。 「その世界は、今私達がいる世界と酷く“近い”ところにあって、 主人公がそこに迷い込んでしまい……という内容だ。 少々突飛な発想だったが、これがなかなか面白い」 その言葉に、きり丸は言いようのない衝撃を受けた。 限りなく近い世界に迷い込む。 思わず、きり丸は仙蔵に尋ねていた。 「その近い世界というのは、元の世界とどう違うんですか?」 「全く他の者から見れば些細なことでも、当人から見れば大きな違いであることもある。 主人公にとっての些細なことは、隣の村が消えていたこと。 主人公にとっての大きな差異は、自らの村も消えていたことだったな」 つまり、違いはいろいろあるということだ。 その大小は、当人の価値観によるというだけで。 「興味が沸いたのなら、読んでみるか?」 仙蔵が尋ねたが、きり丸はゆっくり首を振って、その本を返した。 「いえ……いいです。失礼しました」 小さく頭を下げてから、きり丸は本の整理をすべく、棚の方に戻る。 きり丸の頭の中では、今さっき聞いた話が駆け巡っていた。 限りなく近い世界、自分達のいる世界と、幾つかの差異がある世界。 それは物語の中の話なのだと、分かっている。 だが、きり丸は自分の体験と重ねずにはいられなかった。 限りなく近い世界。(少なくとも、忍術学園はあったらしい) 幾つかの差異がある世界。(まだ頭に残っている、焼け落ちた学園) まるで夢物語のようなそれ。 だが、とてもその状況は似通っていた。 その仮説なら、きり丸のあの体験を説明することが出来る。 自分もまた、迷い込んだのだと。 その仮説が本当でも、本当でなかったとしても。 とにかく帰ってこれたことに、きり丸は改めて安堵した。 そして、きり丸はそれ以上、考えるのを止めた。 それ以上、あの世界について考えたら、恐ろしい推測が出来てしまいそうだったから。 今、自分は帰ってこれた。 この空間に。 この場所に。 帰りたかったところに。 それでいいのだと、自分に言い聞かせる。 胸に手をやれば、袋に入った手裏剣 (きり丸が怪我をしたのを見て、しんべヱが用具委員長に頼んで作ってもらった)が、 その存在を主張した。 それに連鎖するように、きり丸はぼんやりと、 あの時その手の中にあった手裏剣に、思いを馳せた。 ならばあの手裏剣は、誰のものだったのか、と。 それを知る術はもう無い。 知りたくも無い。 いいや、知らなくていいのだ。 きり丸はもう一度自分に言い聞かせ、考えを払うかのように、頭を振る。 そうして、自分を呼んだ先輩の声に応えて、いつものように走って行った。