何も怖くないと思っていたのに


初めて手に握ったのは、箸でもペンでもなく、クナイだった。

自分でものを食べるよりも先に、自分の身を守るために人を殺すことを覚えた。

だから、そうすることに何のためらいもなかった。

いや、今でも、ためらいはない。

殺さなければ死ぬのだ。

今も昔も、それだけは唯一変わらない信念といってもいい。

ただ、今はそれは少し形を変えている。

生きるためには、殺さなくてはならない。

生きなくては、何もかもが終る。

彼女に触れることすら、出来なくなる。

……木の葉の死神が、甘くなったものだと昔の知り合いなら笑うかもしれない。

笑いたければ笑うがいい。

彼女の傍にいたい、いや、彼女を傍においていたいと思うのは、事実であり真実なのだから。


「螺旋?」

ふと、声をかけられて我に返る。

顔を向ければ、おそらく面の下で少し心配そうな顔をしているだろう、彼女の姿。

「どうしたの?」

「なんでもない」

首を振って否定してやれば、少し訝しげにしながらも、それ以上は追求してこなかった。

とん、と地面に着地して、そこでようやく、殆ど無意識に殲滅任務を終えたことに気付く。

珠影の方も何も問題ないようだ。

すぐに炎を放って、たった今屍になったものを焼却する。

ああ、思い出した。

らしくなく、少し昔に思いを馳せた理由が。

前にもあった。

あか、だ。

殲滅対象から吹き出る、その色が、少し昔へと自分を立ち返らせたのだ。

それとはまた違うあかを見たことによって、それがようやく分かった。

あれから大して時間も経っていないというのに、遠い昔のことのように思える。

あの時の問いの答えは、まだでない。

今まだ自分は生きているのだから、出ているほうがおかしいだろうが。

あの時の思いは覚えている、だが、変わったものもある。

「螺旋、やっぱり、何か変じゃない?」

ぼんやりしていたのかもしれない。

勢い良く燃え盛る炎を前に、珠影が心配そうに覗き込んできた。

面の下でだが、薄く笑って返してやる。

「本当に、大したことじゃない。少し昔を思い出しただけだ」

「昔……」

昔のことを持ち出すと、珠影は少し不満そうな顔になる。

おそらく、珠影はその頃の俺を知らないからだろう。

そんなところも、俺は愛しいと思う。

そう、愛しいのだ。

かつて無かったこの感情、かつての俺との相違。

誰かを愛しいと思う心。

かつてはその感情を全く理解できなかった。

任務達成に余計な、不必要なものとして、切り捨ててきた。

それが今はどうだろう。

今は、この存在を決して手放したくないと、心の底から思う。

手放してなるものか。

三代目が、ことあるごとに自分に言っていた言葉が、今や戯言ではなくなった。

く、と小さく笑う。

珠影が、また不思議そうに首をかしげた。

「珠影」

それにまた笑みを深めながら手招きしてやれば、珠影はすぐにこちらに寄ってくる。

ある程度近づいたところで、手を引っ張りその肩を抱いた。

「ちょ、螺旋!?」

「少し、そのままでいろ」

当然珠影は慌てたように声をあげたが、声をかければすぐに大人しくなった。

そんな従順なところも愛しくて、少し力を強める。

面の下は、おそらく真っ赤になっていることだろう。

それが見れないのは、少し残念だ。

ああ、もう。

本当につくづく愛しいと思うのだ。

何ものにも代え難い、この幸せに浸っていたいと思うのだ。

だから、死にたくない、生きたい。

暗部に入り、多少の時間を過ごせば、もともとの素質もあり、戦いは苦にならなくなった。

言い換えれば、死の恐怖を殆ど感じなくなったと言ってもいい。

だから、この世界に己が恐れるものなど、大してないと思っていた。

思っていたのだ。

腕越しにぬくもりが伝わる。

確かに、この腕の中にその存在が感じられる。

それを、失いたくないと。

この存在を、彼女を失いたくないと。

初めて、喪失を恐れたのだ。

もう手放したくないと、彼女のいない世界なんて要らないと、そう思えるほどに。

「珠影」

「うん」

「お前は俺のものだ」

「……うん」

ぎゅ、と珠影が俺に抱き返す。

少し体を屈めて、その口を俺の口で塞いだ。

やわらかいその感触を確かめながら、傍らの炎の爆ぜる音を聞いた。

決して手放さない。

もし手を出すものがいるのなら、その時は容赦なくその何かをこの手で切り裂いてみせる。


何ものでも、たとえ神であっても、死であっても、この存在を奪わせはしない。


何も怖くないと思っていたのに
(君を失うことが、何よりも怖いと)