未だ忘れられないあの日の影


そこは白い白い場所で。

見えない壁の向こうに、あいつはいた。

何でお前はそっちに行ってしまったんだ。

どうしてあの時諦めてしまったんだ。

叫ぶように聞く。

すると、あいつは、今まで聞いたことのない、穏やかな声で答えた。

満足したからだ、と。

満足か。

あれでお前は満足だったのか。

まだやりたいことや、やり残したことがあったんじゃないのか。

なのにどうしてお前は諦めてしまったんだ。

そいつは答えた。

俺が、ずっと一番欲しかったものは手に入れた、俺は満たされた、と。

諦めなかったら、もっと色んなものが手に入ったんじゃないのか。

二番目に欲しかったものも、三番目に欲しかったものも、手に入ったんじゃないのか。

もっともっとたくさん、得られるものがあったんじゃないのか。

ああ、声が遠い。

もどかしい。

手を伸ばした。

もう少し、近づければいいのに。

近づいて、やたらと落ち着いているその顔をぶん殴れればいいのに。

でも、だめだ。

やっぱり、俺とあいつの間には見えない壁がある。

隔たれている。

壁を叩いた。

壊れるわけが無い。

知っている。

この壁だけは、誰にも壊すことができない。

これは一方通行の通り道。

俺はまだ通れない、道。

あいつはそれでいいんだと、笑った。

お前はまだそっちにいなきゃいけない、って?

分かってるさ。

分かってるよ。

俺にはやらなきゃいけないことがある。

俺を待っている人がいる。

でも、お前にもいただろう。

お前の帰りを待っている人たちが。

なのに、なのに。

その後に続けたかった言葉はでなかった。

代わりに、お前は自分勝手な馬鹿野郎だ、と思いっきり叫んだ。

するとそいつはそうだなと笑った。

ああ、くそ。

どうしてそんな安らかな顔で笑うんだよ。

俺は何も言えなくなってしまうじゃないか。

馬鹿野郎、ともう一度呟くように言った。

それからそいつは。

そいつは。


「良守!」

呼び声で、目が覚めた。

視界に、見覚えのある顔がある。

目をこすりながら起き上がった。

「ん……影宮?」

「いつまで寝てんだよ。もう放課後だぞ」

影宮が呆れたように言って、ようやく夕暮れになりかけているのに気付いた。

「げ、早く帰んないと!」

「ったく、そんなんで夜の仕事大丈夫かよ?」

「……」

「良守?」

「何でもね。じゃあな、影宮。また後で!」

黙り込んだ俺を訝しんだ影宮を置いて、昼寝をしていた屋上を出る。

早く帰って、仕事の準備などを済ませなきゃならない。

そう、夜が来るのだ。

何もかもを呑み込むような、夜が来る。

あいつを呑み込んだ、夜が来る。

俺にはしなきゃならないことがある。

守りたいものがある。

だから。

「本当に、馬鹿野郎だよ……」

幻の残滓は、その言葉に詰め込んでおいた。


『じゃあお前は、馬鹿な俺の分まで生き抜いてくれ』


未だ忘れられないあの日の影
(そいつは、さいごまで笑っていた)